レプリカのうた -Replica's Song- 第3章:学者の住む街 第23話 黒い目 マルメロは、目の前に座る男を心配そうに覗く。 「大丈夫? ソロさん……」 「す、すみません」 ソロは先ほど勢いよく机と衝突した顔面を冷えたタオルで押さえていた。 「鼻血も止まったみたいだし、よかった。まだぶつけたところが赤いけど……痛くないですか?」 そう問われた彼は、まだ赤みの引いていない鼻頭を白い手でこすった。 「うん、大丈夫。ありがとうございます」 目の前の彼女を安心させるように、ソロは柔和な笑顔を浮かべて言葉を返す。 彼らは、先ほどリントが蹴り飛ばした机に座っていた。 三人がここを出て行った後、マルメロが細い腕一本で重そうな机を軽々と置き直したためだ。ソロは関心というより驚きで背筋が一瞬寒くなった。 「ここってソロさんのお家だったんですね」 カウンターに戻ったウィリアムと、目の前のソロを見比べて、マルメロはにこにこと笑った。 その明るい声に、ソロの笑顔は困ったように引きつる。 「はは……。あんまり知られたくなかったんだけどね」 「どうして?」 「ほら、僕の両親は……かなり……いや、少し変わった人だから……」 その弱々しげな笑顔に、マルメロは首をかしげた。 「それに、久々の実家ってちょっと恥ずかしくて……」 「ソロさんは、あんまりお家に帰ってないんですか?」 「うん。僕はリラの実家――ルーガスにあるガーフィー家のお屋敷にお世話になっているから、ここにはあまり帰ってこれないんだ。ここからルーガスまではとても距離があるし……あ」 言葉の途中でソロは何かに気づいたように、マルメロの後ろに赤い瞳を向けた。 それにならって、彼女も後ろを振り向いた。 「あ、ツキさん! おはよう。よく眠れた?」 マルメロの後ろにゆったりとした影が現れた。 昼過ぎだというのにとてもマイペースな様子で、ツキは小さく欠伸をしている。 彼女は、マルメロの問いにこくりと頷き、そして初対面の男のほうをじっと見た。 「ソロさんっていうの。教会の人だよ」 「はじめまして、ソロです。えっと……こちらは?」 「リントさんのお姉さんのツキさん。魔術がすごいんだよ」 ツキは瞬きを何度か繰り返しながらしばらくソロを見つめていたが、急にはっとして厨房のほうへ歩いていった。 ソロは小声で囁いた。 「嫌われているのかな?」 何も言葉を発しなかった彼女を見送りながら、ソロは呟いた。 「ううん。ツキさんはすごく無口な人だから、きっと恥ずかしいんだよ」 「そ、そうかなあ……」 ツキが歩いていったほうを見ると、彼女はエミリアとここのメニューを見比べているところだった。遅めの朝食だろう。 マルメロは、カウンターに座っている店主ウィリアムを見ながら口を開いた。 「ソロさんはお父さん似ですね。顔のつくりとか、目の色がウィリアムさんにそっくり」 「そうかな? どちらかというと、母似って言われるんだけど」 「優しそうなところはエミリアさんに似てる……かも。わたしも、お母さん似って言われるんですよ」 「へえ。お母さんはフォルーネに?」 その問いに、マルメロはにっこりと笑った。 「ううん。お母さんはずっと遠いところにいます」 マルメロは、相変わらず柔らかい微笑を浮かべていた。 とても温かい笑顔だった。 しばらく二人が教会について色々と話をしていると、宿の扉が開かれた。 ドアに付いた鈴が綺麗な音を奏で、マルメロたちもそちらに目を向ける。 「おかえり、ビスタ」 入ってきたのは、先ほどリントとライラックを追いかけて宿を飛び出したビスタだった。 「ただいま。ソロ、鼻大丈夫?」 ビスタがマルメロの隣に腰掛け、向き合ったソロの赤い鼻を見つめる。 彼はぎこちない笑顔を浮かべて鼻の頭を撫でた。 「なんとか……」 マルメロの横に座るツキは、白いパンを頬張っていた。ビスタが朝食に食べた、この宿自慢の手作りパンだろう。 ツキの横に皿が積みあがっている。ビスタは、その量に目を見張った。 「ツキさんすごいよね! パンが吸い込まれていくみたいに消えちゃったんだよ」 「え、何、魔術で? 四次元とかに?」 「ううん。ツキさんの口の中に」 マルメロはキラキラした目でツキのほうを見ていた。 ツキはその視線を気にするまでもなく、すました顔で最後の一切れを勢い良く口の中へ放り込んだ。 向側に座るソロも、ツキの勢いある食べっぷりに唖然としていた。 ビスタは眉をひそめながら目の前のソロに小声で問う。 「あれ何個目?」 「僕が見てた限り、パンは34個目、スープは12杯目……かな」 ソロの柔和な微笑みはひくひくと引きつっていた。 彼曰く12杯目のスープを飲み干したツキは、機敏に立ち上がり厨房のほうへと歩いていった。 マルメロは机の上に散乱した食器を軽々と持ち、その後ろについて行った。その顔は憧れと尊敬に満ち、輝いている。 今度は一体何を持ってくるのだろう。ビスタとソロは困った表情でそれを見送った。 二人は顔を見合わせてため息を付いた。 「えっと……リラとリントくんは? 大丈夫だった?」 「なんとかね。二人なら多分、もうすぐ――あ、来たかな?」 ビスタがドアのほうへ目を向けた瞬間、激しい勢いでドアが開いた。 同時に荒々しい二人分の足音が流れ込んできた。 「くそっ、手を離せこのバカ女!」 「まだよ! 遠足は家に着くまでって習わなかったの?」 部屋にいる者の視線は二人に集中した。 ライラックはリントを引き連れて、ビスタたちのテーブルへと腰掛けた。 「……リラ、迷惑掛けちゃ駄目だろう」 ソロは、隣に腰を下ろした少女に優しく声を掛けた。 「逃げるこいつがいけないのよ! ……あら、鼻どうしたの?」 「えっと……ちょっとね」 ソロは乾いた笑いで答えた。 先ほどの惨劇を見ていなかった二人は同じような表情を浮かべて不思議そうに彼を見ている。 「まあいいわ。早速聞かせてもらうわよ」 ライラックは、隣に無理矢理座らせたリントに凄んだ。 「お前……反王子派って本当だろうな……」 しぶしぶと席に付いたリントは、隣のライラックへ訝しげに問う。 「教会術者嫌いって本当みたいね」 ライラックが不機嫌そうに呟く。 それがリントの耳に届いたようで、彼は面倒くさそうに金髪を振り上げる。 「クラウィウス王子とその顧問術者さえいなければ、こんなに嫌いにはならなかったかもな」 その単語が出た途端、ライラックは目つきを変えた。 「――あたしがあなたに聞きたいのはただ一つ。その王子の顧問術者があなたを追っているのはなぜ?」 リントは透き通るような色をした瞳を細くして、不機嫌そうな声で返した。 「その『顧問術者』に直接聞けばいいだろう。お前の実の兄なんだから」 ライラックは、驚いて目を見開く。 「……やっぱり。あたしの名前を聞いた瞬間に逃げたのは、兄様を知っていたからなのね」 「え? お兄さん?」 ビスタが黒い瞳を丸くさせる。 「そう。王子派の中でも最高権力を持つ術者よ。クラウィウス王子の顧問術者、リーディアス=ガーフィー。あたしの兄様よ」 ライラックは目を閉じてため息を付いた。 「お前の兄はボクを内密で追っているんじゃなかったのか。どうしてお前がボクのことを知っているんだ」 「あたし、盗聴得意なの」 リントは青い瞳を怪訝そうに歪める。 「いい趣味だ」 「あら、ありがとう」 つんと澄ましたライラックの顔に笑顔は浮かんでいない。 固くなった空気を何とかしようと、ビスタは口を開いた。 「リントは悪いことしたの?」 「悪いのは教会だ」 いつも以上にトーンの低い声に、ビスタは顔をしかめた。 「でも、追われているじゃないか」 「あいつらがボクを探すのは無理もない。自分の秘密がいきなり逃げ出したら必死になって捕まえるだろう? つまり、そういうことだよ」 「秘密? って教会の?」 「外にもれたら周囲の反感を買うどころか、教会という組織が潰れるかもしれないな」 彼はそう言い切って、唇を綺麗に歪めて笑みを作った。 その言葉にライラックは青くなる。 「あなた、何者なの? 何でそんな兄様が――王子派が必死になるほどの秘密を知ってるの?」 「お前には関係無いだろう」 「あるわよ! だってあたしは……あたしは、王子派を倒さなきゃいけないんだから!」 「リラ……」 突然立ち上がったライラックを、隣に座るソロが嗜めた。 周りの視線がこちらに集中しているのが分かった。 ライラックは、咳払いをして恥ずかしそうに腰を落とした。 「と、とにかく、あなたが何者でもいいわ、この際。少しだけでいいの。あたしに力を貸して。王子派のことを教えて欲しいの」 「ボクが協力するような人間に見えるかい」 「……あんまり良さそうな人間には見えないわね」 「素直すぎるところは兄に似てないな」 リントはくすりと笑った。突然零れた笑みに、ライラックは驚く。 「ねえ、ライラック」 「なあに?」 ビスタはそこで思い切ったように言葉を継いだ。 「どうしてライラックは、ここまでするの? お兄さんと敵対するようなことをしているの?」 ライラックは、そこで本日何度目かになるため息を付いた。 そのため息は、自嘲気味な響きが宿っていた。 「敵対……ね。そうね、これが裏切っているように見えるのは仕方ないわ。実際、兄様から見ればこれは裏切り行為だもの」 ライラックはそこで顔をきっと上げる。 黒い瞳がきらりと光を帯びた。 「でも、周りから何と言われようとも、あたしは王子派を倒さなきゃいけないの。あたしは、兄様を助けたいの」 「助ける?」 その問いに、ライラックは静かに頷いた。 「あたしは、兄様が間違ったことをしていると思ってる。だから止めたいの。――助けたいのよ、兄様を」 その笑顔を見て、リントは隣で呆れた顔を作った。 「確かに、ボクは一時クラウィウス王子とリーディアス=ガーフィーに関わった。教会内部の知識も多分、君たちよりあるだろう」 リントは綺麗な金髪を指で弾いた。 「――協力してあげてもいい。お前にね」 「え? ほ、本当?」 ライラックのぽかんとした表情と、リントのいつも通りの表情を見比べているうちに、マルメロとツキが戻ってきた。 マルメロが大きなお盆を軽々と持ち、ツキは両手で重そうに何かを抱えていた。 「エミリアさんがアイスくれたよ。……ツキさんはもう半分食べちゃったけど」 マルメロが持っているお盆にはアイスが人数分並んでいた。 ツキが持っている食器だけ、どんぶりのように大きいのは気のせいだろうか。 ビスタはあえてそこに突っ込むのを堪えた。 「あら、あたしアイス大好き。後でエミリア叔母様にお礼を言わないとね」 ライラックが立ち上がってかん高い声で歓喜する。 そして彼女の真っ黒な瞳は、綺麗な形を作って、笑みを浮かべた。 <第3章 END> |