レプリカのうた -Replica's Song- 第3章:学者の住む街 第22話 衝突 宿に戻ると、リントは先ほどと全く同じ場所で本を読んでいた。 ツキはまだ起きていないようだ。 「ちょっといいかしら」 ライラックは、つんとした声で彼を見下ろした。 「教会術者と話すことなんて無い」 リントは隣に立った彼女に目もくれず、不機嫌そうな声を返した。 その返答を無視し、ライラックは口を開いた。 「あたしはライラック=ガーフィー。ジェフランの教会術者よ」 「『ガーフィー』?」 彼はそこでやっと本を閉じた。 優雅な動作で腰を上げると、澄んだ青い瞳で彼女を睨む。 「ああ、なるほど。ガーフィーか」 「何よ」 「なら――ますます話したくないなっ!」 リントがその言葉と共に、目の前の机を力強く蹴り飛ばす。 机が何かにぶつかる鈍い音がした。 「――え?」 突然のことに、彼女たちを含め、ロビーに居た店員や客たちも唖然としている。 彼はその隙に開いた窓を探し、そこから身軽に飛び出した。 「にっ……逃げたわ!! あいつ、やっぱりあの人が探してた奴よ!」 「え」 「追うわよ、ソロっ!」 ライラックは、一目散にドアを目指して駆け出した。 しかし、呼びかけられたソロは顔を押さえて床にうずくまっている。 「だ、大丈夫? ソロさん……」 「直撃だったよね……あれ」 リントと対峙していたライラックには見えなかったが、彼が蹴り上げた机は、勢いよくソロの顔面に当たっていた。 ソロは痛そうに瞳を歪めていた。 「うう……だ、大丈夫……」 「あっ、ウィリアムさん!」 今の騒ぎに、店主であるウィリアムがカウンターから顔を覗かせていた。 「ご、ごめんなさい。机壊れてたら直すから!」 「ああ、大丈夫。ドニがよくここで飲んで片っ端から机倒していくから慣れてるよ」 ウィリアムはサングラスの下で紳士めいた微笑を浮かべた。 彼は、「そんなことより、」と言葉を継いで、ドアのほうを右手で示す。 「追わなくていいのかい。ライラは良識のある子だけど、時々感情だけで走ることがあるから……君の連れに何かあるかもしれないよ」 それを聞いて、ビスタはマルメロとソロのほうへ叫ぶ。 「マルメロ、ソロ看ててね! ぼく、あの二人を探してくる」 「う、うん。わかった!」 マルメロの返答を聞く間も無く、彼は急いで外へ飛び出た。 その背中を見送ると、ウィリアムはゆっくりとカウンターから立ち上がり、マルメロたちのほうへ歩き出した。 「大丈夫かい」 「ウィリアムさん。何か冷やすもの貸してくれませんか?」 「ああ。カウンターにいる娘に言ってくれれば、氷かタオルを出してくれると思うよ」 「ありがとうございます! ソロさん、待っててね」 マルメロは、笑顔でカウンターへ駆け出す。 ウィリアムは、顔を押さえて机にうな垂れているソロの向かい側にゆったりと腰掛けた。 「どうしてお前は、来るたびに騒動を起こして行くんだい?」 おかしそうな笑い声が含まれた口調で、ウィリアムはやんわりと問う。 その言葉に、ソロは拗ねたような声を出した。 「今のは僕じゃなくてリラだよ……。去年の騒動はドニ兄さんが原因だし……」 まだぶつぶつと言葉を紡いでいる彼の頭を、ウィリアムは軽く叩いた。 そしてサングラスの下で優しく微笑む。 「ほぼ一年ぶりだな。おかえり、ソルイノ」 「ただいま。父さん」 「一度は追いついたの……一度は!」 「う、うん。それは分かったよ」 「なのにあいつすぐどっかに消えちゃったのよ! 逃げ足の速い奴! 今まで教会が捕まえられなかった理由が分かったわ」 ライラックは悔しそうに地団駄を踏んだ。 宿を出たビスタは、彼女にすぐに追いついた。話を聞くと、追いついたもののすぐに逃げられたらしい。 リントがツキを置いて街を出るとは考え難いので、とりあえず宿に戻ろうと提案した。 「嫌よ! あいつは王子派の重要な手掛かりなの! ここで逃がしたくないわ」 「ねえ、それなんだけど、リントって本当に教会追われてるの? リントみたいな顔の手配書なんて見たことないよ?」 ビスタが問うと、ライラックはきりっとした表情を見せた。 「追われているのは確か。けれど、その事実は公にはされていないし、教会の人間だって知らない」 「教会の人間でも知らないのに、どうしてライラックは知ってるの?」 ライラックは真面目な顔を崩し、意地悪そうな笑みを浮かべた。 「答えは簡単。あたしがライラック=ガーフィーだからよ」 彼女は黒く縁取られた瞳でウインクをしてみせた。 ビスタは何と返していいのかわからず、ただ目をぱちくりさせて首を傾げた。 「さあ、あいつを捕まえないと。追跡魔術は範囲外かしら……」 彼女は持っていた長い杖で、足元の硬いレンガを叩いた。 すると、杖を中心に光の線が溢れ、彼女の足元に複雑な円形の図式を描く。 彼女は杖を固く握ったまま、瞼を閉じて耳をすませている。 「……見つからない? おかしいわね。範囲外でも存在だけは感知出来るはずなのに……。洞窟が近い所為かしら?」 ライラックは、眉を潜めて、また新しい魔術を弾き出している。 ビスタがその様子を黙ってみていると、後ろから呼びかける声が聞こえた。 彼がそちら――薄暗い建物の隙間へ目を向けると、正に話題の人物の姿があった。 「あ、リント」 ビスタが声を出すと、相手は怒ったような形相で、彼の膝を蹴った。 「おい。何であんなのボクのところに連れてきたんだ……!」 彼が苦そうな顔を作りながらビスタに問い詰めた。 「ええと、成り行き?」 「ガーフィーって言ったら、王子派に決まってるだろう」 リントは低い声で呻いた。 「とにかく、ボクはここから姉さんを連れて逃げる。あんなのと関わりたく――うわっ!」 「捕まえたわよぉ」 今まで自分を睨んでいた顔が、一瞬視界から消えた。 見ると、いつの間にか魔術を止めたライラックがリントの腕を掴んでにっこりと微笑んでいる。 そこに浮かんでいる表情は、これまでにみたものの中で一番素敵な笑顔だった。 「げっ……ガーフィー……」 「ライラックよ」 彼女は黒髪を手で梳きながらウインクした。 「うふふ、もう逃げないでね。あなたとお話したいことが沢山あるの」 「ボクは無い!」 リントは眉を吊り上げて怒鳴る。 ライラックはそれに怯まず、花のような微笑を浮かべたまま言葉を続ける。 「それに、あなた何か勘違いしているわ。あたしは反王子派よ」 彼は眉をピクリと動かすが、不機嫌な表情は変わらない。 「……手を離せ」 リントは、掴まれた手を厄介そうに動かす。 「あたしの話を聞いてくれる?」 ライラックは大きな黒い瞳で、リントを見上げた。 彼は端正な顔を不機嫌そうに歪め、小さくため息を付いた。 「分かったよ。話は聞こう、ライラック=ガーフィー。じゃないとお前みたいな女はいつまでもしつこそうだ」 その言葉を聞くと、ライラックの笑顔はさらに深みを増した。 |