レプリカのうた -Replica's Song-
第3章:学者の住む街



 第19話 学者の住む街(2)


 朝の柔らかい空気が街を染めている。それは窓の光を伝って室内にも広がっていた。
 ビスタはあくびを隠そうともせず、豪快に口を開けた。
 昨日の夜はベッドに潜り込んでからすぐに睡魔が訪れた。今でも寝ようと思えばもう一度夢の世界へと入れるだろう。
 彼は眠りの淵に誘い込まれないように首を左右に振り、眠気を振り落とす。
「おはようございます」
 ロビーに下りて来たビスタは、女性に声を掛けられた。銀の髪の女性だ。
 ビスタの記憶が確かなら、昨夜ウィリアムに紹介された妻のエミリアだ。彼らは、夫婦でこの宿を経営しているらしい。
 ビスタは彼女に挨拶を返した。
「朝ごはん何がいいかしら?」
 エミリアがにっこり笑ってメニューを差し出す。
 そこにはずらずらとメニューが書いてある。どこの街でも見かける定番のメニューから、珍しい名前の料理もあった。
「うーん、こうあると迷うなあ……」
「この宿とっておきのヒメジという魚のバターソース和え。加えて旬の野菜のサラダに焼きたてのパンがおすすめだよ、ビスタくん」
 いつの間にか歩み寄ってきたウィリアムが両手を広げて熱弁する。サングラスの中の瞳がにこりと笑った。
「じゃあそれで」
「かしこまりました。じゃ、適当に座っていてね」
 そしてエミリアは踵を返し、厨房へと消えた。
 ロビーでは、おいしそうな朝食の香りが漂い、それが朝の空気と混ざって空腹の身体に沁みる。
「お腹空いてきたなあ」
「うちのシェフはわりと料理にこだわりのある人なんだよ。楽しみにしていてくれたまえ」
 隣で空腹のあまり腹をさするビスタを見て、ウィリアムは上品に笑った。
「ああ、そうそう」
 ウィリアムは両手をポンと叩き、思い出したように言葉を継ぐ。
「今日はドニが魔力の実験を見せてくれるらしいよ」
「丁度良かった。ぼくもドニさんに聞きたいことがあったから」
「ドニの家の場所は分かる?」
 ビスタが首を振って見せると、ウィリアムは微笑みながら説明する。
「ここを出て住宅街に入ると、すぐに大きな研究室が付いてる大きな家があるんだけど……」
「ああ、なんとか博士の? それなら昨日見たよ。」
「そう、クラント博士の家。それの斜め向かいにある青い屋根の家がドニの家だ。まあ、あいつの家はすぐに分かるよ」
 ウィリアムは意味有り気に悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「あと、君の連れの子は散歩に行くと言ってたよ」
「マルメロ?」
「そうそう。同じことを伝えたから、ドニの家に居るかもしれない」
 そこで丁度ウィリアムを呼ぶ声がした。彼は呼ばれたほうに返事をし、ビスタに向き直る。
「じゃ、料理が来るまで待っていてくれよ」
 彼が手で示したテーブルには、リントが座っていた。

 リントは、黙々と、けれどもつまらなそうに本を読んでいた。
「おはよう。リント早起きだね」
 ビスタが声を掛けると、リントはすっと顔を上げた。
「ツキは?」
「さあ。多分まだ寝てる」
「ふーん」
 ビスタは机の上に置いてあった新聞に目を通した。教会のことが載っていないかぱらぱらと捲って見るが、どの記事もパッとしないようなことばかりだった。
 ビスタが新聞に気を取られていると、リントは再びつまらなそうに本に目を戻していた。
 彼を観察していてもつまらないのでビスタは辺りに目を向ける。
 中年の男と若い男が入り口近くで朝食を取っていた。多分他の宿泊客であろう。
 その隣には、家族連れがいる。
 そしてその近くで、それほど大きくもない窓を従業員と思われる若い娘が綺麗に磨いていた。
 カウンターを見ると、そこには初老の店主――ウィリアムが紳士めいた笑顔を浮かべながら、手元のノートに目を通している。その隣では、若い男が気さくな笑顔で接客をしていた。

 何となくカウンターを見つめていると、不意に綺麗な音が響いた。
 音の正体は、入り口に付いている小さな鈴だ。ドアを開くたびに鳴るその音を昨日から何度も耳にしていた。
 ビスタは音がしたほうへ目を向けた。
 大きく開かれたドアから小柄な影が現れる。ビスタと同じ年頃の少女だった。
「あ」
 ビスタは彼女の服装に驚く。
 彼女が身にまとっているのは真っ白なローブ。ジェフラン教の教会術者の服である。そして右手には、長く白い杖を軽々と携えていた。
 少女は靴を優雅に響かせ、カウンターを真っ直ぐに見据えながらそちらへ歩いていく。  彼女を見つけたウィリアムは、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「やあ、ライラ。久しぶり」
「こんにちは、ウィリアム叔父様」
 その少女はつんとした声でそう言うと、少しローブの裾を上げて会釈した。
 その動作に、真っ黒な髪が揺れる。
「いつ来たんだ?」
「今朝よ。ソロも一緒。しばらくここに滞在するかもしれないわ」
「それは嬉しいな」
 ウィリアムは、深く柔らかい声を出す。
 二人の態度から見ると、よほど慣れた間柄のようだ。
「今回も部屋を貸してくださらない? 叔父様」
「ああいいよ。今夜からだね。用意しておくよ」
 そして彼が彼女に断って、手元のノートを捲り始めた。空き部屋を探しているのだろうか。
 彼女はウィリアムが顔を上げる間、ビスタと同じように何気なしに室内を見回し始める。
 そしてこちらへ目を向けて、一瞬彼女はぎょっとした表情を作った。
 ビスタは思わず瞬きを数回する。
 それでも彼女はまだこちらを見続けている。
 けれど、彼女が見ているのはビスタでは無かった。
 彼女の視線を追いかけると、彼女はリントを凝視している。
 リントはまだ手元の本に目を落としているので、彼女の視線には気付いていないようだ。
「――ライラ。いつものところにきみの部屋を用意しておくよ」
「あ……え、ええ。ありがとう!」
 彼女はウィリアムに呼ばれ、弾かれたように彼に向き直る。
 焦りながら笑みを作った。
「それじゃあ、あたしまだ用事があるから。ソロには後で来るように言っておくわ」
「ああ、そうしてくれ」
 彼女は入り口へ歩き出し、ドアノブに手を掛ける。
 それを開ける前に、再びこちらを振り向いた。
 その視線は先ほどと同じくリントのほうを見ている。訝しげな視線だった。


 ビスタは、黒髪の少女が再びあの鈴を鳴らしながら外に向かう姿を見送った。
 アルブムで初めて見る教会術者を疑問に思い、彼は口を開いた。
「ねえ、リント。教会とアルブムって仲悪いんだよね?」
「そうみたいだな」
 彼は本に視線を落としたまま、面倒臭そうな口調で答えた。
 どうやら、それ以降は会話をする気が無いらしい。ビスタは話題を変える。
「ねえ、ところでぼくのこと覚えてない?」
「だから知らないって言ってるだろう。お前の姿も名前も覚えが無いよ」
 リントはここでやっと顔を上げる。
 上げられた表情は機嫌が悪い。というより、それが彼にとっての普通の表情なのかもしれない。昨日会った時からずっとこの顔をしている。
「大体、ボクには従兄弟も親戚もあまり居ないし会う機会も無い」
「一度東に来たんだよ。リントのお母さんの用事だったかな? それで会ったんだけど」
「母はたしかに東出身だけど……。ボクは東に行ったことがないぞ」
 リントは眉を潜めてビスタを睨む。睨まれた彼は慌てて言葉を足した。
「父さんが『従兄弟みたいな感じの子』って言ってたから従兄弟だと思ってたんだけど。それに、父さんがリントのお母さんのこと『姉さん』って呼んでたし」
「母には兄しか居ない」
「うーん……おかしいね」
「お前の記憶違いじゃないのか?」
「うん、そうかもね」
「はぁ……」
 リントは呆れて肩をすくめ、再び活字の世界へと目を向けた。
 これ以上この話題を話していても埒が明かなそうだ。

 その時丁度エミリアが料理を運んできた。
 運ばれた料理から食欲をそそる香りが漂っている。
 これを食べたらドニのところへ行ってみよう。彼はそう思いながら、目の前のパンを口へ運ぶ。
 焼きたてのパンとまろやかな味わいのジャムが、彼の空腹をゆるく潤した。



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