レプリカのうた -Replica's Song-
第2章:闇が照らす中で



 第10話 闇が照らす中で(1)


 踏み込んだ洞窟内は、浅黒い世界が広がっていた。
 今、彼らの耳に響くのは、二人の会話と二人の足音。
 そしてどこからか響き渡る、水の流れる音だった。
 闇によって視界が制限されているこの空間の中において、瞳から得られる情報だけで歩くことは困難である。
 唯一の明かりと言えば、ランプの薄仄かな輝きだろう。先頭を歩くビスタが持っているそれが無ければ、岩が剥き出しになっているこの道を歩くのも難しいと言える。
 現に、入ってから間も無い今でさえ、既に彼らは何度か足場の悪い道につまづきそうになっているのだ。
「ねぇ、ティルエスってどういうとこ?」
 道さえもぼんやりとしか見えない薄色の闇の中、ビスタは後ろの少女にふと話題を投げかけた。
「え? ティルエス?」
 聞き返す彼女のほうは、何度目かの脆い岩場を身軽に跳び越していた所だった。
「んー、そうだなぁ。わたし、家とフォルーネ以外の場所ってあまり知らないんだけどね、ティルエスってジェフラン教が所有してる大きい研究施設があるんだ、って聞いたことあるよ」
「研究施設……」
 彼は、その言葉を、口の中で静かに繰り返した。
 思い出すのは、月明かりに映える、黒い微笑。
「あの教会術師は、ジュンのこと『サンプル』って言ってたんだよね? ってことは……」
「うんうん、絶対そこに連れて行かれたんだよ!」
 ビスタの言葉を継いで、少女は激しく良く首を上下に動かした。
 もちろん、薄暗い中、互いの表情は見えていないので、その動作を彼が見ているはずも無かったが。
「うーん、サンプルか」
 彼が考え込み始めると同時に、彼女は明るい声で、違う話題を切り出した。
「そうだ! ビスタの住んでた所って、西の教会条約なんていうものも無かったんだよね?」
 ビスタが少女のほうを振り向いて首を傾げる。
「え、西の教会条約? ……うーん、聞いたことな――わっ!」
「きゃっ、ビスタ!?」
 彼の視界が揺らいだのはその時だ。
 一瞬、自身でも何が起きたのかさえ分からなかったが、身体が浮遊しているのだけは、はっきりと分かった。
「げ……っ!?」
 落ちた頃に、彼自身が転倒したことに気付いても、時は既に遅かった。
 彼の悲鳴と共に、無抵抗に水飛沫が舞い上がる。
 重力に引かれるようにして、体重が、鈍く水を叩く音がした。
「ビスタっ!?」
 冷たい飛沫が、彼女の肌を掠める。
 そこで初めて、目の前に水があるということを理解出来た。
「水……?」
 マルメロが一時遅れて声を出すころには、彼の姿は水に飲まれている。
 突然のことに驚いている間にも、事態は素早く展開していた。
 気付いたころには、先ほどから聞こえている水の声しか響かない。
「んー、川?」
 彼女は、彼の落としたランプを拾い上げながら、辺りを照らす。
 そして、仄かに照らされた先を見ると、辛うじて、水が流れている様子が感じられた。
「気付かなかった……」
 水の音が近くまで迫っていることは感じていたが、ここの流れは緩やかであるからか、その気配さえ感じられなかった。
 彼女は、やや落ち込んだ様子で、ぼんやりと映る水辺を見つめながらため息を付いた。
「……………――よしっ!」
 しばらくじっと考え込んで、彼女は勢い良く立ち上がる。
「うん、出発っ!!」
 それから彼女は、咄嗟に、彼が落としていったランプを掴み上げ、二本の足で地を蹴った。
 どうやら、彼女は、考えても仕方ないという結論にたどり着いたらしい。
 彼が流れていった方向――ランプが薄く照らす川沿いの道を、走り出した。
 相変わらず細く足場の悪い道。
 岩が剥き出しになったその道を、彼女は身軽に駆けてゆく。

 流れてゆく、水を追って――。










 仄かに冷えた水が、少年の顔へと落ちる。
 ビスタは、その冷たさからか、弾かれるようにして目を開いた。
 しかし、開いたはずの視界には、何も見えず、ただ、一面が暗黒で塗りつぶされているばかりだった。
「え……あれ?」
 自分の瞳が開いているかを確認するように、再度瞬きを繰り返す。
 しかし、その瞼をどう動かそうが、世界は闇から一変する様子も無かった。
 それらの行動を起こしてから、彼は自分が闇の中に居ることを理解した。同時に、先ほどまでの記憶が蘇る。
 先ほどまで耳元で唸っていた川音が、今はどこからともなく聞こえてくる。
 川をたどれば、先ほどの道まで戻れるかもしれない。多分、川はさほど遠くないはずだ。
 彼は、いつものごとく、楽観的に考えて腰を浮かせた。
「いだっ!」
「……っ!」
 鈍痛が、彼の頭蓋骨を貫いた。
 ビスタは咄嗟に頭を抑えてうずくまる。
 しかし、痛みよりも先に、ハッと息を呑む音が聞こえたことに対して驚いた。まるで、その打音と悲鳴に驚いたかのように、それは気配を浮き彫りにさせた。
「え?」
 今まで周囲に感じなかった人の気配を、今始めて感じた彼は、誰に聞くわけでもなく、そう返した。
 洞窟内は、ビスタの間抜けな声と、川を走る水の音しか響いていない。
 しばらく彼が闇を見つめていると、どこからか観念したように、小さなため息が漏れる。
 同時に、声が聴こえた。
「………キミ、誰だい?」
 奈落の底のような闇。そこに響いた声は、まるで澄み切った冬の空気を思い出させる。
「教会の奴?」
 闇しか見えていないその空間の中で、再びその声が、凛と空気を震わせた。
 それは、相手を問い詰めるような、緊張感の混じる鋭いものだった。
「ええと、ぼく――って痛っ!」
 彼はその問いに答えようと、自然と腰を浮かせたが、結果として同じ行動を再現することになってしまった。
 再度同じ行動を繰り返した彼の頭には、やはり痛みが走る。
 ビスタは、ここの天井の低さを、やっと理解した。
「――じゃ無さそうだね」
 学習能力の無い行動に、相手の声にも弱冠呆れが見える。

 憂いを帯びたため息は、そっと空気を揺るがした。




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