レプリカのうた -Replica's Song-
第1章:逃げ出した駒



 第1話 ふりかえる夜


「騒がしいな」
 薄暗い闇の中で、ぽつりと声がした。
 声の主の表情は伺えない。そこは薄暗い闇だったからだ。
 唯一の細い月明かりが、気休めのようにその灰色の闇を照らす。
 そして先ほどの言葉に反して、部屋は息をすることさえ躊躇うほどに静かだった。
 闇の中から、また一つ声が聞こえた。
「逃げた、みたいです」
 何かを堪えているような、沈んだ重々しい口調だった。
 先方の言葉の矛盾さには何も言わない。
「逃げた?」
 それはその声を発すると共に、片手を宙で一振りさせた。乾いた空気の燃える音がする。暗い闇の中に、夕映え色の灯がぽつりと浮かび上がる。
 すると先ほど伺えなかった表情が、次の瞬間には明るい炎によって照らされていた。
「ああ……そう、逃げたのか」
 相手の返答を待たずに、それは薄く笑いを浮かべながら呟いた。
 視線を相手から外し、月明かりの浮かぶ硝子越しの空を見上げた。
「逃げたのか」
 それは確認するように言葉を繰り返した。しかしそこに先ほどのような笑いはなく、疲れたような溜息交じりの声だった。
 その言葉を肯定するように、相手は口を開く。声には焦りが混じり、わずかに震えていた。
「――『上』の連中は、死に物狂いで探しています」
 視線の先には、炎の明かりで僅かに浮かぶ微笑。その笑みが一体誰に向けられているのかはわからない。
「そうか、どうりで騒がしいわけだ」
 一方が急かしているにも関わらず、落ち着いた笑みを浮かべながらそれは言葉を紡いだ。
「『上』も馬鹿だな」
 そして、視線を身体ごと相手に戻す。
 つられて身に纏っている衣服の裾が揺れる。
「探して見つかるものだと思ってるのか? ――『あれ』が」
 それに含まれた笑いは、どこか皮肉めいたものさえ感じられる。
 返答するように、相手は肩を落とした。
 それもどこか、諦めや皮肉の混じるものに見えた。
「仕方ないです。『上』の命令ですから」
 その言葉を聞くと、笑みをかたどっていた瞳は、ゆっくりと閉じられた。
「そうだな、『上』には従うまでだ」
「ええ、あなたも、我々も。それに――見つからなければ、困るでしょう」
 投げかけられた問いに答える代わりに、それは炎へ手を伸ばす。
 そして今度は、静寂の中に明かりの萎む音が鳴る。それらのシュルエットは、再び控えめな闇に溶けた。

 相変わらずそこには水底ほどの静けさが存在している。空間を照らす光は、おぼろげな月明かりだけだ。
 そしてそれは、うんざりとした口調で溜息を零した。

「……騒がしいな」

 静寂の夜へ、憂鬱なひとつの声が沈みゆく。
 


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